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カール・フォン・リヒテンシュタイン (1803-1871) : ミニ英和和英辞書
カール・フォン・リヒテンシュタイン (1803-1871)[かー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
テン : [てん]
 【名詞】 1. 10 2. ten 3. (P), (n) 10/ten

カール・フォン・リヒテンシュタイン (1803-1871) : ウィキペディア日本語版
カール・フォン・リヒテンシュタイン (1803-1871)[かー]
カール・ボロメウス・ヨハン・ネポムク・アントン・フォン・ウント・ツー・リヒテンシュタインKarl Borromäus Johann Nepomuk Anton Prinz von und zu Liechtenstein, 1803年6月15日 ウィーン - 1871年10月12日 バート・イシュル)は、ドイツボヘミア系の諸侯リヒテンシュタイン家の侯子。リヒテンシュタインヨハン1世ヨーゼフの三男。1806年から1813年までの7年間、非常に幼かったにもかかわらず、ライン同盟傘下のリヒテンシュタイン侯国の摂政とされていた。
ヨハン1世ヨーゼフとその妻のフュルステンベルク=ヴァイトラ方伯夫人ヨーゼファの間の第6子、三男として生まれた。父はオーストリア軍の陸軍中将(Feldmarschalleutnant)であった。
1806年、リヒテンシュタインはフランス皇帝ナポレオン1世によりライン同盟諸邦に加えられたが、ヨハン1世は引き続き主家であるハプスブルク家に対する忠誠を守ろうとしており、わずか3歳の息子カールをライン同盟に組み込まれたリヒテンシュタイン侯国の摂政に任命し、自らはその後見人として国を治める形をとった(このとき、長男で侯世子のアロイス(2世)、次男のフランツはともに健在だった)。1813年にナポレオンが没落すると、ヨハン1世は息子の摂政を廃して執政に復帰した。
カールは長じてオーストリア軍の陸軍少佐Oberstwachtmeister)となり、また1836年に信託財産としてノイレンクバッハ(オーストリア領ニーダーエスターライヒ州ザンクト・ペルテン=ラント郡)を相続した。1832年9月10日にグリュンネ伯爵夫人ロザーリエ(1805年 - 1841年)と結婚し、間に2男1女をもうけた。
ノイレンクバッハの所領は長男ルドルフが継いだが、ルドルフは1882年に弟フィリップの一人息子カール(1862年 - 1893年)に所領を譲渡した。1893年にカールが独身のまま死去すると同時に、ノイレンクバッハはリヒテンシュタイン侯ヨハン2世の弟フランツ(後のフランツ1世)が相続した。
== 子女 ==

*ルドルフ(1833年 - 1888年)
*フィリップ・カール・アレクサンダー(1837年 - 1901年)
*アルベルティーナ・ヨーゼファ・アントニア(1838年 - 1844年)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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